01 空腹サクラの場合
02 嫌悪マリの場合
03 冒険イチルの場合
04 欲情ネネの場合
05 我儘コトハの場合
06 秀才シズクの場合
07 千夜子の場合
※重大なネタバレを含みます。
秀才シズクの場合
■1
「なぜ?」
それが母の口癖。
四角いローテーブルに卓上ライトを乗せ、資料の海の中で分厚い本をめくり、ミミズののた打ち回るような字を殴り書くと、ペンの先でとんとんといくつもの点を描きながら母はそう言った。
また本をめくり、しばらく読み耽って突然閃いたようにペンを走らせる。それから別の紙を手元に手繰り寄せ、また「なぜ?」と呟くのだ。
扇風機も回っていなかった。汗が流れるのも気に留めず、母は私の向かいで研究に没頭していた。宿題の山を片付けて眼鏡がずり落ちるのを直すまで、私も自分の汗に気が付かなかった。
汗なんかどうでもいい。恐ろしいほどつまらない夏休みの宿題が憎くてたまらなかったから、私は終業式から帰ってきてすぐに取り掛かった。
終業式は昨日のことで、「つまらない」という重罪を許せなかった私は、すでにほとんどの宿題を終わらせていた。今は午前八時二十分。
残っているのは自由研究だけで、むしろ私はこれに一番苦心した。担任の教諭は好きなものを調べてまとめればいいとだけ言っていたけど、私には思い当たるものがなかった。
特にこだわりのない私は、題材なんて本当になにでも良かったから、先ほど母が目の前で閉じた「超常現象とその一覧」という本をこっちへ引き寄せた。表紙には無機的にその文字だけが書かれていて、「いきものずかん」のようにイラストがふんだんに使われた、私を馬鹿にしたような本よりなに倍も好感を抱けた。
「あんた、それ読むの?」
その本を開くと、母は手を止めてこっちを見た。私は目次をさっと目でなでてページをめくる。
「自由研究だから」
「自由研究で超常現象をまとめるの? 子供らしく読書感想文とかにすればいいのに」
白紙を挟んで「はじめに・そもそも超常現象とは」という章タイトルが書かれていた。なんで子供だというだけで子供らしくしなければいけないのだろう。
「じゃあこれの感想文を書く」
「あっそう。ヘンな子」
それは仕方のないことだ。ヘンなあなたの娘なのだから。
母はしばらく私のことを見つめてから、なにかわかったら教えてねとだけ言って研究に戻った。
■2
近頃、母は超常現象についてひどく熱心に研究している。母が持っていた本のタイトルに「超心理学」の文字を見つけた時は目を疑った。
それまで科学と研究ひとすじだった母だから、むしろ科学とは真逆のことを調べ始めたのは青天の霹靂とも言えた。母はもともとヘンだったけど、これまでこだわりのあったヘンだったのに、ついに気が狂ってしまったのだと思った。
「目の前で見せられたのよ」
だがどうも事情はちがうようだった。
母の話によると、ある日、知り合いの教授に誘われて、山村千恵子なる人物の「超自然的な現象」、いわゆる超能力を見せつけられたのだとか。
その教授によると、かの女性・山村千恵子は透視や予知の能力を持っていたという。実際、母の目の前でも触れずに封筒の中身を言い当てたり、指定されたマークを紙に浮かび上がらせたりすることが出来たそうだ。本当のところはどうだか知らないが。
これまで物理と化学によって説明できないことなどなかったから、科学が絶対だと信じていた母が、初めて説明できないことに遭遇してしまったのだ。
当然、その現象については慎重になに度も検証したらしい。しかしどんな手段を使っても、山村千恵子の行ったことについては説明ができなかった。
そこから、母の至るべき結論は二つに分岐した。
ひとつは科学的立場を貫くこと。山村千恵子の超能力について科学に基づく解明をし、超能力というあやふやな言葉で片付けられることを回避する。
もうひとつは超能力を認めること。山村千恵子がしでかした超自然的な現象について、それが超自然的であることを立証し理解する。
後者は、今まで科学者として生きてきた母自身の人生すら否定することになりかねなかったが、どちらにせよ、超能力やその周辺の背景について、まずは深く理解せねばならなかった。
だから母は、世間一般からはトンデモ話にしか見えないような文献を、 こんな気温の中でも食い入るように読み漁っているのだ。
私はその話を母から聞き出して、驚きも感心もしなかったけど、推測が確信に変わったことだけは嬉しかった。
私の母はなにがあっても本と戦うのをやめないんだ。例え隕石が落ちてきたって、その隕石が地表に衝突して地殻をめくりあげ、母の足元を吹き飛ばすその瞬間まで、なぜ隕石が落ちてきてどう地殻が剥がれるのか、はたまた自分が死んだあとどうなるのかを至って真面目に、命の限り考え続けるにちがいない。
私はそんな母が好きでもなかったし嫌いでもなかった。肯定もしないけれど、否定だけは絶対にしない。
最低限の子育てだけこなし、あとは研究に没頭するその姿は、少なくとも短い人生を生きる人間として間ちがっているとは思えなかった。だってこれは、人間にしかできないことなのだから。
■3
私が「超常現象とその一覧」を三十ページほど読み進めた頃、けたたましい電話の呼び鈴がしつこい目覚まし時計みたいに鳴り響いた。
ふと顔を上げるとすでに母がペンを放り投げて立ち上がっていたので、私は予知に関する項目に再び目を落とした。
なるほど、予知とは通常、予知能力者自身にもコントロールできるものではないらしい。大抵の場合はなんの前触れもなく不正確な未来のことを夢に見ることが多く、またそれぞれの夢もいつのものだかどこなのかも不明瞭。
名ピッチャーのようなコントロールができるのはごくわずかの人間であるように、案外、超能力というものも持っているだけでは不便なのかもしれない。どういう意味を持っているのかわからない夢を無作為に見せられるのも、なかなか悩ましいものだろう。
「神隠しの起きる村?」
電話口に向かって喋る母のその言葉に、私は思わず目を上げた。
「へぇ、ああそう……それはいかにも非科学的で胡散臭そうな……まあいいわ。で、どこにあるの?」
電話の向こうの声に入念に聞き入りながら、母は手元のメモにぐりぐりとえんぴつを押し付けた。
「遠いわね、次に私がまとまって予定を空けられるのは……っと」
母は話しながら目で手帳を探し、それが私の目の前にあるとわかると、手帳を指さしてから手のひらを自身のほうへくいくいっと返した。私は手帳を取って、指示された通り母に向かって投げた。
「うわ、来月も再来月も埋まってる……十月の講演会どうにかならない? こんなのに来る輩なんて形だけインテリぶりたいだけで、みんな私の言ってることなんかわからないんだから……ああ、はいはいわかったわよ。じゃあその次に行けるのは……」
■4
それから四ヶ月経った十一月。母の身動きが取れるのは一番早くて今日だった。
この夏は猛暑だったというのに、そんなことにはお構いなしであっという間に寒さが身にしみるようになっていた。
うちは母子家庭であったから、私は母の出張には必ずついていかされていた。子守を頼めるような知り合いもいなかったし、ついでにいい社会学習になると言って、母はほとんど毎月、出張のお供に私を連れた。
私は小学生にしてすでに中学レベルの問題が解けるほど成績も抜きん出ていたから、母の出張のために私が学校を休みがちになることについて、担任を論破することもそう難しくはなかった。私は特に出張についていくことを望んだわけではなかったが、もう理解し尽くしたことに関してでも大人しく授業を受けるという無意義な行為はもっと望まなかったので、母が担任のぐうの音すら論じて砕かんとしている少しの間、私は一切口を挟まなかった。
東京でも北京でも、ウィーン、ニューヨーク、シドニーでも、母は私を連れて学会や講演会に臨むことが出来た。私にとってはどの出張も同じように思えた。東京も含めてどこへ行くのにも飛行機に乗らなければならないし、知らない大人とは話さないので、そこが日本でも外国でも関係なかった。それは、『神隠し』が起きるというこの神無村でも同じことだった。
村の入り口をくぐる時に『ここから神無村』という看板が、うっかり見落としてしまいそうなところに立っていた。私が最初に耳にした時には気付かなかったが、神無村という文字列はどこか見覚えがある気がした。少し考えてもどこで見たのか思い出せなかったからさほど重要ではないはずだけど、私がその村の名前を見るのが初めてでないことはたしかだった。
「遠かったわね」
タクシーを降りてトランクから荷物を下ろすと、母は開口一番そうぼやいた。母との出張で十時間にも及ぶフライトも経験したことのある私は、その意見にはまったく賛同しかねた。それに比べれば四時間弱の旅路なんてあっという間だったというのに、母はどうにも不服なようだった。
「よりにもよってどうしてこんなに遠い村なのかしら。もっとうちの近くで神隠ししてくれてもいいものよね?」
荷物を引いて宿に入っていく彼女は私に話しかけたようにも見えたが、私はあとについて横目に流しただけだった。そんなにあちこちで神隠しが執り行われていたらたまったものではない。
それよりも、私はこの村に入ってどこかちが和感を覚えていた。今まで母に連れられて色んなところを見てきた。日本はもちろんだし、アジア、アメリカ、ヨーロッパの各所も回った。しかしその中のどの場所にも、こんな歪な空気感を持ち合わせているところはなかった。
一体なにが、私に妙な感覚を抱かせるのだろうか。ここが『神隠し』の村だから? ちがう。母が山村千恵子になにを見せられたのかは知らないけれど、私は非科学的なものを信じていない。
私は、私達が滞在する二階の部屋から村を眺めた。
寂れた村ではあったが村民は温厚だし、以前に新聞の連載コラムにあった『地域信仰ーそこに息づく神々ー』に書いてあったような、排他的な集団信仰も見られない。そもそも、そんなところに宿が建つわけがなかった。
むしろ神無村ほど寂れた山中の村落に宿が経営していること自体が不思議だった。私達以外に客もいないから観光地というわけでもなさそうなのに、どうして宿を開けているのだろうか。
「なぜ……あ」
呟いてしまってから焦って口を塞ぐ。母の口癖を私が言っていた。
口を塞いだ理由はなんとなく恥ずかしかったからだ。私は私なりに、母とはちがう道をしっかりと歩んでいるものだと思っていたから、母の片鱗を自分の中に感じてしまうと、どこかむず痒い感覚が私を襲った。私はそれを誤魔化すように眼鏡をかけ直す。
嬉しいのか悲しいのかわからないけれど、珍しく私はなにかを感じることが出来た。
■5
母は手始めに周りの村民へ聞き込み調査をかけることにした。
「雫、いい? この村を歩く時は、絶対に私の後ろを離れないでね」
宿を出てすぐ、母がそう言って聞かせたので、私は心底驚いた。今まで、例えば白目の黄色くなった黒人が死んだ目で見てくるような、パリの路地裏を歩いた時だってそんなことを言わなかったのに、今回に限って母はこの上なく真剣な眼差しをした。私はそんな母に気圧され、無意識に深く頷いた。
聞き込みは至って簡単だった。そして母が真剣な眼差しで私に言付けたのもすぐに納得が言った。
まず始めに宿屋の主人に尋ねると、すぐに当たりくじを引くことになるのである。
「そうですね、ここのところこの村では不可解な現象が起こっていて、村民はそれを神隠しと呼んでいまして」
主人は机の引き出しから宿帳を取り出してこちらに向けた。
「ほら、ここに書いてある。月野木さんだ」
開かれた宿帳を覗き込むと、今年の八月に『月野木・大人二人、小人一人』と記録されていた。そこから私達の苗字である『九十九』が書かれた今日まで、実に八組もの宿泊客がいた。
「親子三人で来たようでしたが、どうもわけありみたいでね。口論になってお嬢ちゃんが飛び出していってしまったんです。それっきり」
「それっきり?」
主人が妙なところで言葉を切るので、母はすかさず聞き返していた。
「神隠しですよ。それっきりお嬢ちゃんは戻ってこなかった。こんな狭い村で、忽然と姿を消しちまったんです」
主人が宿帳を閉じて、胸元から煙草を取り出した。
「その子の捜索はしたの?」
「まあ、月野木の旦那さんが散々喚き散らしてしまいましたから。近くの町の駐在も呼び寄せて、村総出で、一応、探しはしましたね」
「一応?」母はどうしてもその言葉に引っかかるようだった。「一応ってどういうこと?」
ぷかーっと煙をくゆらせて、それから主人は宙を見た。
「だから、神隠しなんですよ。少なくともここの連中はみんなそう思ってる。この村で神隠しが起きるようになって、わかっているだけでもう四人ですから」
そう言ってから、主人は紫煙ごしにゆっくりと私のことを眺めた。
「どうして連れてきたんです?」
■6
「神隠しなんて、あるわけがない」
山道を行く途中で、母は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。私は隣を歩いている母を見上げ、あと少しでその矛盾した言動について言及してしまうところだった。母の手が、私の手を強く握っているのだ。
物心ついてからこれまで、母が私の手を握って歩くことなど一度もなかった。私はいつだって母の背中を見ながら歩いていたし、一人で歩くことは怖くなかった。
神隠しなんて事象があるはずないことは、私はしっかり承知していたから今だって怖くないけれど、どうやら母はそうはいかないようだった。
「神隠し、信じてるの?」
私がそう訊ねても母は歩みを止めない。
「信じてないわよ。でも、神隠しに準ずるような人為的な行為がこの村で行われているのだとしたら、あなただって危ないじゃない」
その意見には私も同調できた。たしかに行方不明者は出ているのだから、村人たちが神格化してしまう神隠しという行為は、人間である誰かが行っているものだと仮定して妥当なものだ。
「この道で合ってる?」
次第に道幅の狭くなっていく斜面を見て、それが私の口を突いて出た。
「合ってるはずよ。例の農家に行くためには、この山を越えなければいけないんだから」
宿屋の主人は神隠しについて有用な情報を教えてくれた。他の行方不明者はいずれも外から来た人間らしかったが、一人目はこの村の住人で姓を忽那という、山向こうの農家の娘だった。今でもそこに住んでいるということを聞いて、まず向かうべきところがそこであることを母は確信した。
山は鬱蒼と茂っていた。やっと車が通れるくらいの道幅で、でこぼこした悪路ではあったが、上に向けて道は伸びていた。
私はふとあることに気がついて足を止めた。立ち止まった私に引っ張られて、母が振り返る。
「どうしたの?」
「……音がする」
「え?」
「静かに」
山の上のほうから降りてきた冷たい風が、母の束ねた髪と一緒に辺りの木々を揺らすと、遠くから地面になにかを突き刺すような音がざっく、ざっくと聞こえてきた。
母はおよそ音の出処であろう辺りを眺めると、「本当だわ」とさらに耳を澄ませた。
音のする方へ登っていくと、やがて一軒の平屋が現れた。ざっく、ざっくという音は家の奥の方から聞こえてくる。
「ちょっと道を聞こうか」
母はそう言って、開け放たれていた玄関の引き戸から中を覗き込んだ。
「ごめんくださーい」
私は後ろでその背中を見ながら、彼女にしては控えめな音量だと思った。神隠しを起こしている人物がいるかもしれないと思って少し弱気なのだろうか。
「ごめんくださーい!」
今度はさっきよりも強めに声をかけたけれど、 ざっく、ざっく、ざっくという音は同じリズムを刻んだまま、止む気配がなかった。
「困ったわね。裏へ回ってみましょ」
私が頷くよりも早く、母は玄関脇を家の裏手へと進んでいた。いつの間にか繋いでいた手は離していて、私は母の背中を追うように歩いた。
■7
その家の裏手には古びた井戸があって、向こうに離れの小屋も見えた。白衣を纏った男性がシャベルで穴を掘っていて、彼に近づいていく母を見たまま、私はそこから動けなくなっていた。
「あの、すみません。お訪ねしたいことがあるのですが……」
母はそこで声をなくした。
彼女の視線が井戸の周りにある四つの掘り返された跡を捉えて、それから今掘られている穴を見て、ようやく井戸の陰に横たえられた少女の死体を見た。私はすでにこの位置からそれが見えていたから、母を止めることも出来なかったし声も出せなかった。
「雫っ、逃ゲッ」
ごん、と鈍い音が響いて、母の言葉が妙な途切れ方をした。不意に大きく振るわれたシャベルが母の頭を横殴りにし、彼女の体が奇妙に曲がって地面に落ちた。
それから男はなに度もなに度も、帆立貝の殻が割れるまで石を叩きつけるラッコのように、倒れ込んだ母の頭部だけを正確にシャベルで打ち続けた。母の頭は毎回微妙にちがう音を鳴らして、殻が壊れていく様を克明に私に告げていた。やがてその音が粘り気を含むまで男は執拗に頭蓋を打ち砕き、それが終わるとシャベルを捨てて私のほうへと歩いてきた。
その時私は、初めてその男が老人であることに気付き、不気味なほど白いことにこの上ない嫌悪感を抱いた。
きっと、こういう時、普通は逃げ出すべきなのだろうけど、すでに全身が硬直していることを私は知っていた。代わりに私の頭を駆け巡ったのは閃きだけだった。
神無村という文字列をどこで見たのか思い出した。あれはある日の新聞、隅のほうに小さく神無村の記事が載っていたのだ。見出しは「少女連続誘拐事件か」……。
涙が出るどころかからからに乾いてしまったこの瞳が、白衣の老人から伸びてくる手を鮮明に映しだした。